三会堂ビルの沿革

 大日本農会、大日本山林会、大日本水産会の三会の創設時は、それぞれ別の場所に事務所を構えておりましたが、明治16年、農商務省から同省所属の京橋区木挽町にある土地・建物の貸与を受けまして、三会の合同事務所としました。この建物うち会堂はそれまで明治会堂と呼ばれていましたが、農商務省の許可のもとに明治17年、厚生館と改称し、三会の集会場として、また一般の集会場として貸与するとともに三会もそれぞれ、その業界に関する生産から製造品までの標本陳列所を付設して、参観者の参考に供しました。

 その後、明治22年の国会開設を前に官有財産の整理があり、上記土地・建物の返納を命じられ、三会はその手続きをすることとなります。この時、農商務省から深川木場の建物の一部が貸与されました。しかし、三会事務所としては手狭なため、こちらには標本や機具等を収納するに止めて、事務所の方は翌年の明治23年1月に芝区葺手町の土岐家の建物の一部を賃借して三会ともこれに移転しました。

 同年9月には三会それぞれ違う住所の掲記がありますが、その所の経緯の詳細については不明であります。


<第一次三会堂>

 三会は事務所と会堂の場所を固定出来ずに困っていたが、当時の三会の幹事長であった子爵品川弥二郎氏が御料局長官であったのを頼ります。明治23年年9月16日、学習院の予定地であった赤坂区溜池町所在の田町第一御料地内の土地を50年無料貸与が決定されました。

 当時、この土地は溜池の湿地部分が多く渡舟場などがあった為、整地する必要が有りました。三会はそれぞれの資金を集め、すぐに整地に取り掛かります。湿地を埋立て、区画の整理を行った上、丸の内の博覧会事務局の建物の払下げを受けて、共同の会堂と事務所を三会自ら初めて建設を企画します。同年23年12月の竣工をもって、翌年24年1月21日に移転する事となります。

 そして、明治31年7月、「農会、山林会、水産会共設の会堂を爾今三会堂と称す」と内外に広告し、この会堂を「三会堂」と命名しました。三会堂を完成を機に三会ともども順調に発展していきます。


<第二次三会堂>

 明治36年2月、三会の会員が増加に伴い事務所が狭くなったことや建物の汚損もあり、第二次三会堂建設の計画が始まります。翌37年6月に設計を完了、9月に竣工。11月23日に落成式を挙行します。
 
 「第二次三会堂」は木造2階建ての佇まいでした。2階は集会場、1階は総裁宮殿下休憩室、貴賓室、会議室、食堂。その他、付属家屋は調理室、総裁宮殿下御厠などが設けられてありました。

 この会堂の2階正面の庇の下には、三輪を組み合わせた三会堂のロゴデザインが施されており、「三会の結合と親睦を象徴」として掲げられていました。

 しかし、大正12年9月1日の関東大震災により、全館消失。三会の図書、重要書類や多数の標本を失う悲運に際会しました。また三会堂の再建の目途も立つ訳もなく、ただただ途方に暮れておりました。


<第三次三会堂(石垣会館)>

 この時、大日本水産会の会員であった北洋漁業の先覚者「石垣隈太郎」翁から、農林水産業開発の為、私財を挙げて多額の寄付申入れがありました。大日本水産会は役員会を開き、石垣翁の目的を達成する為、基本構想の基に大日本農会及び大日本山林会と諮り、三会で受納することを決定します。その基本構想の一環として、会館の建設(第三次三会堂)、会館の名称は石垣会館とする、銅像及び住宅の建設等が記されました。

 また、寄付者の意志を後世に伝えるため、寄付一切を資産として財団を設立、その財団を建物の所要者とすることが決まり、石垣隈太郎名義で許可申請を提出します。大正15年1月6日、「財団法人石垣産業奨励会」の設立の許可を受けます。
 
 そして、昭和2年同地に当時としては偉容を誇る鉄筋コンクリート造の地上5階建の「第三次三会堂(石垣会館)」が完成します。前記にもありますが、当時の資料によりますと、会堂の名称は、寄付者の石垣隈太郎翁から名前を取り「会堂は、三会堂石垣会館と命名すること」と記されています。また開館式の際は、寄付者の銅像を一基作成(彫刻家 朝倉文夫 作)し、会堂1階の玄関にて除幕式が行われました。その後、銅像は戦時中の供出を余儀なくされます。現在のものは戦後に再製された二代目となります。

 しかし、この建物も昭和20年5月25日、第二次世界大戦の戦火に巻き込まれ、夜半にB29の爆撃を受け、建物内部を全焼、外装だけが残る形となりました。その際には、本会並びに三会の重要書類も焼失してしまいます。三会の事務は、しばらく焼跡の中で執られていましたが、戦後は米進駐軍に接収され、三会は分散を余儀なくされます。

 昭和21年3月1日から銭高組による改修工事が行われます。従来の事務所の原形をとどめないまでに改装され、トイレ・シャワー等を備えた純アパートメント化されてしまします。同年9月15日より、「三会堂アパートメント」と呼ばれ、GHQ将校の家族宿舎にあてられます。

 その後、昭和33年10月に接収は解除・返還され、アパートを事務室に改修後、昭和34年から三会をはじめ農林水産関係団体が入居しました。


<第四次三会堂ビルディング>

 昭和39年12月14日、農林省の許可を得て、財団法人石垣産業奨励会を発展的に改組改修した「財団法人農林水産奨励会」を設立します。

 昭和40年2月1日、地鎮祭と第四次三会堂の施工が開始されます。

 昭和41年12月27日、ビルの名称について、三会堂の「堂」の字はビルを意味することから、当初は、「三会ビル」として計画が進んでいました。しかし定礎式の際、やはり長い歴史を持つ三会堂という名前を残すべきとの話し合いがなされ、ビルの名称を「三会堂ビルディング」と変更したとされています。令和5年10月の解体工事の際、定礎の辞等と共に納められた銅の箱の中には、当時の役員名簿も同封されており、その表紙には「建物名称変更のこと定礎式に先立って左記の通り改称す 記 三会堂ビルディング 以上」と記されていました。

 昭和42年2月27日、地上9階、地下3階の鉄筋コンクリート造の「第四次三会堂ビルディング」が完成します。外壁の窓が白いプレキャストコンクリートで形成されたポツ窓で並び、一際存在感のある仕上がりになっており、昭和を代表するビルとして建築業界や建築マニアには人気がありました。ビルの内外いたるところにRのデザインが採用され、特にエレベーターホールや階段に多くのRの形状が使われていました。また9階や屋上では、三会(農・林・水)を象徴させるデザインが施されており、設計者の三会堂への配慮やこだわりを感じさせます。地上1〜9階が事務所、地下1階が店舗、地下2、3階が駐車場、9階には200人規模が収容できる石垣隈太郎翁の名が付いた「石垣記念ホール」がありました。

 平成10〜11年には、耐震工事を含む大規模リニューアル工事が実施されています。

 なお、公益法人改革に伴い、財団法人農林水産奨励会は平成25年4月1日、「一般財団法人農林水産奨励会」と名称を変更しております。


 令和元年4月1日、虎ノ門二丁目開発の一環として、第五次三会堂ビルとして生まれ変わる計画が進み、第四次三会堂ビルディングは、56年の歴史に幕を閉じます。令和5年9月より解体工事が開始しております。


<第五次三会堂ビル>

 現在は第五次三会堂ビルの新築を予定しております。
令和6年7月より新築工事を着工予定しております。





情報無し  
 
第一次三会堂
明治23年12月竣工
(情報無し)
 
第二次三会堂
明治37年9月竣工
(木造 2階建)

第三次三会堂(石垣会館)
昭和2年4月竣工
(鉄筋コンクリート造 地上5階、地下1階、塔屋2階、
暖房設備付き、エレベーター1基)

設計・監督:佐藤功一 氏(工学博士)


工事請負者:銭高組

別館(石垣氏邸宅用)
(鉄筋コンクリート造 2階建て 40坪)


第四次三会堂ビルディング
昭和42年2月竣工
(鉄筋コンクリート造 地上9階、地下3階、塔屋3階)


設計監理:佐藤兄弟建築設計事務所          
      所長 佐藤鉄夫 氏(佐藤功一氏のご子息)

工事責任者:鹿島建設株式会社 会長 鹿島守之助 氏

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◆明治23年9月16日
   学習院の予定地であった赤坂区溜池町所在の田
  町第一御料地内の土地を50年無料貸与が決定さ
  れる

   三会はそれぞれの資金を集め、当時この土地は
  溜池の湿地部分が多く渡舟場などがあった為、す
  ぐに整地に取り掛かり、湿地を埋め立て、区画の
  整理を行った上、丸の内の博覧会事務局の建物の
  払下げを受けて、共同の会堂と事務所を三会自ら
  初めて建設を企画する

 
 この会堂の正面軒下に三輪を組み合わせたロゴデザインが施されており、「三会の結合と親睦を象徴」として掲げられていた

 
 当時、新橋界隈でもこのような高層が少なく、東京でも珍しい最新式のビルディングであった、長年にわたり浸透した三会堂の名称と共に一つの目印として東京の地図には掲記され、タクシーも三会堂といえばどこからでも運んでくれた

 
◆昭和41年12月27日
 
  ビルの名称について、三会堂の「堂」の字はビルを意味す
  ることから、当初は「三会ビル」としていましたが、長い歴
  史を持つ三会堂という名前を生かして、「三会堂ビルディン
  グ」
と名称を変更した

   令和5年10月の解体工事の際、定礎の辞等と共に納めら
  れた銅の箱の中には、当時の役員名簿も同封されており、そ
  の表紙には「建物名称変更のこと 定礎式に先立って左記の
  通り改称す 記 三会堂ビルディング 以上」
と記されていまし
  た。

◆明治23年12月 竣工

◆明治24年1月21日 移転

◆明治31年7月
   「農会、山林会、水産会共設の会堂を爾今三会
  堂と称す」
と内外に広告、初めてこの会堂を「三
  会堂」
と命名した

◆明治36年2月
   事務所が狭くなったことや建物の汚損もあり建
  物の第二次三会堂建設の計画をはじめる

◆明治37年6月 設計を完了

◆明治37年9月 竣工

◆明治37年11月23日 落成式

◆大正12年9月1日
   関東大震災により全館消失、三会の図書、重要
  書類や標本類なども焼失、大損害をうける

◆大正14年8月 設計を完了

◆昭和2年4月 竣工。同月23日、落成式

◆昭和20年5月25日
   第二次世界大戦のB29の爆撃を受け、内部は全焼、外装を
  残すのみに、三会の事務はしばらく焼跡の中で執られていた

   その後、米進駐軍に接収され、昭和21年3月1日から銭
  高組による改修工事が行われる、従来の事務所の原形をとど
  めないまでに改装され、トイレ・シャワー等を備えた純アパ
  ートメント化される

   同年9月15日より、「三会堂アパートメント」と呼ばれ
  、GHQ将校の家族宿舎にあてられた、三会は分散を余儀な
  くされる

◆昭和33年10月
   昭和21年以来GHQに接収されていた建物が解除返還され
  る、ビル改修工事は同年11月1日より設計監理川元良一
  氏、施工竹中工務店により開始

◆昭和33年12月〜
   三会をはじめ再び順次移転を開始、昭和34年4月24日
  に開館披露パーティーを開催した

◆昭和39年12月15日〜昭和40年1月31日
  三原建設株式会社により解体工事開始〜完了


◆昭和42年2月27日 竣工

◆昭和42年4月18日 落成式

◆昭和49年9月26日
   
ホール屋根改修の件。竣工1年足らずで屋根が
  
歪み始めたことから鹿島建設が重量を軽く工事を施工
  
しかし、再び歪みはじめたのでこの改修について検討する
  住友不動産を通じ設計、施工両者に話すこととなる


◆平成10〜11年
  耐震工事を含む大規模リニューアル工事を実施


◆令和4年12月10日
   事務所を内幸町の日土地内幸町ビルへ仮移転(三会+関係
  団体も同居)、閉館作業として一部業務は三会堂ビルディン
  グに残す

◆令和5年7月31日
  全テナントが退去完了する

◆令和5年8月31日 閉館

◆令和5年9月1日〜令和6年7月頃
  鹿島建設株式会社により解体工事開始〜完了予定



石垣隈太郎 翁 ◆安政6年4月8日
 
  三重県員弁郡大社村(現在の東員町)にて生誕
◆明治7年
  
 14歳、三菱会社(横浜)の給仕として勤務
◆明治10年12月
    本州―北海道間の航海に従事、初めて北海道の地を踏む、三菱会社函館
   支社勤務、22年同社退職
◆明治22年
   函館で酒、醤油、缶詰、油の商いと共に漁業経営
◆明治24年
   函館で「ラムネ」を製造
◆明治27年
    北洋で海獣猟業(ラッコ、オットセイ等)、樺太から魚の買い付け、サケマス漁業等、
   北海道漁業開発に貢献し、「水産王」と称される
◆大正14年1月

    北洋漁業の先覚者である石垣隈太郎翁は、全財産約100万円を公共事業に使用する
   事を条件として、大日本水産会に寄付の申し入れをする、三会は寄附の受納と財団の
   設立を決定

◆大正15年1月
   石垣隈太郎翁の寄付一切を資産として「財団法人石垣産業奨励会」を設立

◆昭和2年4月23日
   第三次三会堂(石垣会館)の完成、石垣隈太郎翁銅像(朝倉文夫 作)の除幕式
◆昭和3年5月5日
   石垣隈太郎翁 逝去
◆昭和3年5月9日
   三会堂石垣会館 大講堂にて葬儀執行、多磨霊園に石垣家の墓を建立
享年70歳
(1859〜1928)


石垣隈太郎翁 銅像   三会堂ビルと石垣隈太郎翁


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